俺教

俺の考え方を説く

映画グランツーリスモを鑑賞

 

AIMMan。映画グランツーリスモを観たので軽く。ネタバレあり、かな。

 

だいちゅきニール・ブロムカンプの作品。第一印象としてはシンプルにまとめてきたな。という印象。ストーリーも王道でよい。やっぱゲームとかCGとかデジタル系好きよねこの人。グランツーリスモってのはみんなお馴染みのあのゲーム。俺は以前やって全然ドリフトできないじゃんこのゲームってなって速攻でやめた思い出。設定とかしっかりすればできるらしいが。俺はイニDで十分っす。主人公誰やねんって思ったけどミッドサマー出てたとか。分からん。

でまぁ、ニール・ブロムカンプっていったら分かりやすい視覚効果の映像とは裏腹にと言うか割と社会的なメッセージ性のあるもんをぶち込んできたりする。と勝手に思ってる。第9地区なら人種問題、エリジウムなら貧富の格差。チャッピーとかは哲学的な感じかな。もちろん監督出身の南アフリカの治安問題もあるね。とまぁ、意外と社会的に重たいテーマも含んだ映画が、見てくれだけじゃねぇってことで評価されてるんだねぇ。

今回もその辺注目して観てたんだが今回はあれだね。世代間の軋轢というか、カルチャー間の軋轢というか、そういう感じやね。親世代と子供世代の価値観の違い。やり方の違い。親世代の趣味と子供世代の趣味の傾向の違い。そもそもグランツーリスモってのは車ゲーで映画も車中心なわけだけど車ってのはオジサンの趣味。傾向の話ね。若い人は東京を中心に車離れが進んでて、その話は冒頭でもウーバータクシーという形で触れられている。今の時代、車は必ずしも必要なものではなく、むしろ金食い虫であるとさえいえる。昔と違って自動車の価格そのものも高いしね。俺はゴリゴリZ世代キッズなので昔のことは詳しく知らんがね。その辺、うん、その辺の対比はあったかな。若者とオジサン。柔軟な若者と堅物なメカニック(オジサン)。ゲームと車。ヴァーチャルとリアル。理性と感情。車ってさ、理性で乗るもんじゃないと思うんだ。いや公道では理性で運転して欲しいがね?本来車ってロマンに溢れた熱い乗り物だと思うんだ。今の若者にはそれこそバブル期のような活気というか熱が感じられない、気がする。車っていう熱い存在との間にギャップがあるのよ。それがそのまま映画に反映されていると思う。映画内で集められた優秀なゲーマー達は実車での訓練の中で「迷ったら踏み込む」ことを主人公のみならずよく口にしていたように思う。迷ったらとりあえず進む。そういう感情的な、若さゆえの輝きや熱を伴ったリスクテイク。根性論。静止を振り切って自分の道を貫く姿勢(主人公だけのライン取り)。なんかそういうのを監督は意識して入れていたように思うなぁ。自分なりのラインの取り方、リスクテイク、父の鉄道会社での一幕。(鉄道はレールの上しか走れない。自由に道を選択できる車との対比かと。)人生全体に対してのメッセージにもなっているシーンは多い。

でも1番大事なのは、オジサン世代から若者へ一方的に既存の価値観を流し込む映画じゃないってこと。若者の柔軟さや若者なりのやり方、考え方、価値観。そういうのをオジサン世代も認めて受け入れ、取り入れていく。そんな相互理解こそがこの映画の核だと俺は思う。デジタル文化の発達や急速なグローバル化、共有や公開を主とするより広い人間関係への変化(手帳で連絡先を管理するオジサンとインスタを通してヒロインと恋愛する主人公、ネットを介して情報を共有し応援するゲーマー達)。それらに隔てられた若者世代とオジサン世代。目まぐるしく変化する世の中ですれ違う両者の関係について、ひとつの明るい未来図を提示したといえるんじゃないか?若者世代とオジサン世代は分かり合える。そしてお互いに良い影響を与え合い、より良く成長できると。そういう事を暗示してるんじゃないかなぁと思うぜ。

昨日観て今日思い出しながらさくっと書いたから雑クオリティ。それっぽい感じに補完して読むこと。