俺教

俺の考え方を説く

聲の形 石田君死亡説

 

おれ。聲の形みた。2回目かな?感想軽く。石田死亡説提唱します。

 

これは恐ろしいお話なんじゃないかと思えてきた。石田死亡説を提唱させてくれ。あの花火がなった橋で石田君は死んでたんじゃないか?あの橋での自殺未遂以後の話は石田君の走馬灯か妄想なんじゃねぇか?前観た時はくっせぇお話だと思ったが、実はどす黒い観客を嘲笑う話なんじゃねぇか?

俺も前にいじめられたことがあるんだが、いじめてきたやつになんか俺だったら二度と会いたくないぞ。当然顔も見たくない。思い出すだけでも最悪だ。序盤のシーン、石田君は西宮に会いに行っている。石田君曰く「死ぬ前の儀式的なやつ」だそう。そんなことを言ってたと思う。つまり橋での自殺未遂以前に西宮に会いに行ったということ。西宮がいじめられていた時のノートを渡そうとしたのもその段階。西宮からしたらどうだろう?いじめてきたやつが突然現れて友達になろう、そしていじめられていた頃のノートを見せてくる。これは西宮にとって最悪の邂逅じゃないか?そして西宮と会った後に橋へ向かった事になる。石田くんは西宮と会って思わず「友達になろう」の手話をした。その時点で二人の関係が確かに動き出した描写になっている。石田君もそう感じていたはず。そこから橋に向かうだろうか?これだけだとイマイチか。もう少し別な所を。

この物語は石田君の主観的かつ自己中心的な贖罪の物語なんじゃないかと思っている。個人的に他に気になったのは花火大会後に自殺しようとする西宮を助けるシーン。落ちるさなか「西宮にどう思われていたか聞いておけば良かった」というようなことを言っていた。これは西宮にとってはどうでもいい事であり、結局自分がどう見られるかという自分主体の思考に終始していた事を示唆している。そもそもいじめてきたやつを好きになるか?小学生の頃の石田君、友達になろうと言う西宮に対し、赤くなっているシーンがある。ちょっと気があるワケだ。つまりこの展開は石田君にとって「かなり」都合がいい展開になっている。

後半では「ごめんなさい!」と謝罪シーンの目立つ西宮。でも西宮って本当にそんな人だったのだろうか。私が悪いから私が死ねばいいんだ。そんな考え方の人だったんだろうか。そうでは無いと思う。個人的に決定的なのは小学生の最後のシーン。「なんかいえよ」と威圧的な態度の石田君を押し倒して「これでも頑張ってる」と泣きながら反撃する。西宮の強さが垣間見えるシーンだ。それに西宮は転校してきたから前の学校があるわけだが、そこでもいじめられていたと考えられる。序盤opのザ・フーのマイジェネレーションが流れているところ。美容室にびしょ濡れで頭に葉っぱをのせた西宮らしき人物が描かれている。その姿は悲しげというかなんと言うか、少なくとも楽しくは無さそうで自分で飛び込んだわけではないようだ。この時点で西宮は転校してきていない。西宮の転校時の髪型はショートだったがこのシーンではロング。つまり前の学校でもいじめられていたんじゃないか?で、髪をばっさり切って心機一転新しい学校へ、という流れだったんじゃないか?そんなびしょ濡れになるようなイジメを受けてなお、いじらしく立ち上がり不登校にもならず学校へ行こうとする西宮。いじめっ子にも果敢に反撃する西宮。後半の「ごめんなさい」を連呼する西宮とはどうも繋がっているように感じられない。西宮は石田君が思っている以上にもっと強い女の子だと俺は思う。それに西宮家の人間は強い人ばかりだ。母親も妹も強い人間として描かれている。つまり後半の西宮は石田君の考えるか弱い西宮で、「そんなか弱い西宮を俺が支えなきゃ」という思い上がった石田君の身勝手な贖罪が描かれているのではないだろうか?

登場人物の身勝手さは他の部分にも描かれている。花火大会後の自殺シーン。自殺とはある種の救済の側面があると俺は思う。だから自殺を無理に止めたりしない。それを無理に止めたり、「生きてりゃいいことある」なんて知らん口をきく事がどれだけ残酷なことか。石田君は西宮の自殺を止めて西宮を生かした。(そもそもこのシーンは実際にはなかったと思うけど)西宮を助ける。西宮からの見え方を気にする。そして川井さんの言葉。「生きていれば辛いこともある。誰だってそう。それでも前に進まなきゃ」そんなこと言えない。言えるはずがない。誰だってそう?そんなこと言われて「ああそうか」なんてなると思うのか?辛さの量も感じ方も種類も人によって違う。完全に他者を理解することはできない。実際描かれている限りでは西宮と川井さんの苦痛には歴然の差がある。それなのに一様に「前に進まなきゃ?」西宮の心情に寄り添っているとは言い難いんじゃないか?反出生主義とか考えたことなさそうだな。

それから髪型が実はこの物語において重要な役割を果たしているのではないかと思う。突然髪型を変えてきた川井さん。告白前にポニテにする西宮(かわいい)。転校前に髪を切る西宮。和解してか石田君家の美容室で髪を切る西宮母。石田君の家は美容室。久しぶりに会ったら体型もスラリとして髪型も変わっていた佐原。佐原と西宮は小学生時から髪型が変化しているが、他のキャラはしていない。これは根本的に変化していない、成長していない事を表現しているのでは?鯉に餌やりをする橋の上で周りに毒を吐く石田君、高校生になってなお補聴器を投げて遊ぼうとする植野。彼らは小学生の時から何も変わっていない。それを髪型で示しているのではないだろうか?

それから先入観やバイアスといった思考の偏りの恐ろしさも描かれていると思う。特に顕著なのはゲインロス効果だ。ヤンキーがいい事すると良い奴に見えるあの現象。またその逆もある。良い奴がちょっと悪いことをするとすごく悪い奴に見える。石田君や植野はちょっと良い奴になった感が終盤でているが、それは過去の行いの贖罪にはならない。小学生の石田君の行いは明らかに度を超えていてそう簡単に許されるものでは無い。物語の中で行われた贖罪行為と西宮のいじめられた負担は到底釣り合わない。それなのに石田君の主観に近い形で描かれる物語を見せられる我々は石田君の成長や更生っぷりに感動を誘われる。素直に感動してるようなやつは石田や植野なんかと変わらない暴力性や自己中心的な思考を持ったやつだと観客を笑いたいんじゃないか?もう1人、バイアスがかかっているキャラがいる。川井さんだ。川井さんはなんとなく作中で腹黒いキャラとして描かれる。「酷い!」と相手を一撃で悪者にする必殺技を使う実は作中一の悪女、のような形で。しかし考えてみてほしい。転校してきた西宮にそれなりに積極的に優しく接し、他の人に対しても基本柔和な態度で人を傷つけない。小学生時の掃除シーン、だべって掃除をサボる植野と対照的に黒板をしっかり掃除する川井さんの姿がある。高校生時も浮いてる石田君含め皆と分け隔てなく接している。しかし1部悪いシーンが目立つせいで植野より石田君より実は性悪のように見えてしまう。もちろんいじめに加担していたかといえばどちらかと言えばYESだろう。でもその程度には石田君や植野とは天と地ほどの差がある。中盤、「私と石田君や植野さんを一緒にしないで!」みたいなことを言っていたシーンがある。いっしょくたにするな。これはバイアスのかかった観客には保身に見えるだろう。もちろん保身の意味合いもあるのだが、石田君や植野のいじめとは訳が違うという主張には一定程度の正当性があるとは思わないか?川井さんの敵を作らない性格が結果的にいじめに同調する形で描写されているだけで、事実だけをシンプルにみればそんなに悪い奴ではないのだ。

 

まぁ、こんなところかな。バーっと書いたからちょと適当だけども。言わんとすることは分かるだろう?今回は石田君は死んでいてこの物語はその走馬灯(ないしは妄想)ではないかというところを書いてみた。実際決定的な描写があるわけじゃないから絶対じゃないけど、こういう見方もできる、と思う。全体的に絵が淡くて、視界の端は色がぼやけてる本作。西宮母にいまいちピントがあってないシーンがあったりするのも気になる。橋で死んだ石田君が最後に西宮母を見たのは小学生の時だからでは?まぁ、これも石田君死亡説を成り立たせるためにその説を補強するような部分が浮いて見えるバイアスなんですけどね。俺の言ってる事に素直に共感してるようだと怖いですよ。

ほんとバイアスってこわいね。